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3月31日の時点ではあちこちの桜は散り始めていて、青い葉っぱが見えてきましたよ。
旭公園にて
(2018.3月撮)








今年は桜が早かった。大阪市内は3月21日に開花宣言をした。
普通、満開になるまで開花から1週間から10日といわれているが、3月26日には満開になってしまった。1953年の観測史上、最も早かったらしい。

さて、桜が咲くとなぜか日本人はお花見お花見と浮かれることになる。
そもそも、今とは違い奈良時代は、花見といえば梅であった。平安時代にはいると貴族の人たちが桜を愛でながら歌詠みなどで楽しんでいたとはいえ、まだまだ大衆のものではなかった。

その一方で、農民のあいだでもお花見は豊作祈願として行われていた。「さくら」の「さ」は田んぼの神様のことで「くら」は神様の座る場所という意味があるらしい。桜は山から降りてきた神様が宿る木で、花の出来具合で収穫を占っていたのだという。

桜の花見が一般的に広がっていったのは江戸時代になってから。まず、徳川3代将軍の家光が上野や隅田川沿いに桜を植え始めた。8代将軍吉宗は町の整備もかねて、江戸のいたるところに桜を植え、民衆を陽気に楽しませようとあちらこちらに桜の名所をつくり、元祖サクラノミクスをやってのけた。

さて、このお花見、年々騒々しくなってきている。風流のかけらもない。
ぼくの知っているお花見といえば、家族だけだとか、会社の仲間だとか、多くても10~20人ほどだったと思う。それが今はどうだ。大川沿いを覗いてみると、何十人もの集まりがあちこちでマイクやスピーカーも持ち出してドンチャン騒ぎだ。たぶん、SNSなどで呼びかけたのであろう。50いや100人ほどの集まりも見たことあるぞ。どうせ、その日初めて会いました、などというパターンも多いのであろう。

さて、桜が咲いたぞ、キレイキレイ、などと我々は喜んでいるが、桜の気持ちの方はいかがなものであろうか。
昔は、神が宿ってくれたり、雅な歌なども詠んでくれたし、お弁当持参の幸せなそうな家族の姿をみせてくれたり、とそれはそれで楽しいひとときだった。ただ、喜んでくれるのは、ほんとに、ひとときだ。なぜなら、キレイキレイと関心をよせてくれるのは、1~2週間のことである。それ以外は、「あの木のそばで散歩するのはいやだわ。毛虫が多いのよね」とかほざくオネエちゃんがいたり、「あっ、この木、桜だったのか・・・。花が咲くまでわかんないんだよね」などといったオニイちゃんもいたりする始末。
でもまあ、それでもいい。シーズンオフは静かにゆっくり過ごせるのだ。ときどき、犬にオシッコひっかけられるのを我慢するくらいでいい。

だが、シーズンオンになるとそうはいかない。バーベキューの煙モクモクの中、飲めや歌えの乱痴気騒ぎはエスカレートするばかり。桜だって目があれば覆いたい。耳があれば塞ぎたい。鼻があればつまみたい。

インバウンドだかワンバウンドだか知らないが外国人も増えてきた。もちろん、日本在住の方々もいるのだろうが、静かでお上品な外国人もいれば、そうでない方たちもいる。昨年、ニュースで「枝を折る中国人」というのを報道していたが、折るのは何も外国人だけではないはずだ。日本人だっている。桜はちゃんと見ている。ぼくだって見たことある。それに、夜中こっそりノコギリ持参でやってくるオッサンたちもいるという。現にこの前、東大阪市で十数本の桜が切られたというニュースがありましたね。桜は痛がっていますよ。泣いていますよ。
このように、我々にとっては楽しみな2週間なんだろうが、桜にとっては耐え忍ぶ2週間なのかもしれない。
桜の気持ちにもなってあげないといけない。