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気分はもう「スタンド・バイ・ミー」。
三重県伊勢中川にて。
JR名松線(めいしょうせん)。
(2013.6月撮)






先月、オリンピック招致のプレゼンで滝川クリステルさんがこの言葉を使って以来、巷では話題になっている。お客様を心から歓待するという意味だ。昔から日本人に深く根付いている精神で、高知県の県庁の中には「おもてなし課」という課もあるくらいだ。

ただ、この言葉、この精神は何も日本のものだけではない。英語でいうとhospitalityホスピタリティー。

実は、1980年、81年とぼくはハワイのオアフ島に住んでいた。この話は、コクア通信でも何度か書いているので「またか」、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、気にせず話を先に進めます。そして、この地で「ホスピタリティー」というのを強く感じた。

もともと観光立国なので人を歓待するのは当然なわけだが、それだけではなく、気候が良く自然にあふれた土地そのものがこちらを癒してくれるのだ。もちろん、住む人たちも陽気でとてもフレンドリーだ。

見ず知らずの他人であっても、道ですれ違う時は「ハーイ」とかいって挨拶をする。声に出さなくても軽く会釈をする。マクドナルドで注文するときもスーパーのレジの人にも同じ具合で挨拶する。2020年、東京の人たちがこれをできるかどうかは謎である。

ところで、ぼくがハワイで何をやっていたかというと、もちろん最初は大学に行っていた。語学を身につけて帰国後はそれを生かした仕事をしようという寸法だった。ただ、ある時期から違うことに興味を持ってしまった。演劇である。ドラマである。この話は、コクアのお客様にも話したことがない。

もともと、子供の時から映画オタクだった。小4のとき、ウメダの映画館で「猿の惑星」を観て以来、アメリカ映画のファンになった。チャールトン・ヘストンが最後に見たものが自由の女神だったというシーンは今でも忘れられない。

それまでは、ゴジラやウルトラマンに興奮していたが、ハリウッド映画のド迫力やストーリー展開などに驚くばかりであった。

中学、高校時代も邦画にはめもくれず、洋画一本だった。もちろん、音楽も日本の歌謡曲ではなく映画音楽を含めて洋楽を聞いていた。完全にアメリカかぶれであった。好きな俳優のマネなどして悦に入っていたときもあった。

ハワイでも映画館に行きまくっていた。年間100本みるぞ!などと鼻息荒らかった。やがて、気がついたら、観る方から、観せる方、演じる方になっていた。これも、語学習得の近道だなどと、軽い気持ちで始めたものが、かなり深入りしてしまっていた。舞台に立つことの緊張感、自分とは違う人間を演じることの陶酔感、そして、拍手を浴びる喜び。

どちらかというと、今までは引っ込み思案で内向的で人と話し出すとすぐ赤面してしまうような情けない人間、まさしくほんとにオタク少年だったが、自分にこんなパワーがあるんだったのかと思うと意外だった。

日本に戻ってもこの熱は冷めなかった。芝居の世界に入ろうと東京に行くことにした。親は、さぞかし驚いたであろう。当然、留学までさせたのだから、一流企業とまではいわずとも普通に就職してくれると思っていたに違いない。それが、わけのわからん芝居だなんて、しかも東京だなんて・・・。

それでも、なんとか両親を説得し、上京した。コクアのお客様にもよく「向こうで何をしていたのですか?学生ですか?」などと質問を受ける。そのたびに、「定職にもつかずフラフラしてましてん」とか「プー太郎でしたわ」とか「いろいろ仕事しましたわ。バイト人生でしたわ」などとはぐらかしてきた。コクア創業以来14年間どなたにも話さなかったのですが、そうです、ぼくは東京でお芝居をしていたのです。

向こうではある劇団のオーディションをうけた。入学試験みたいなものですね。結局、200人以上が受けて、その中から約40人が合格して研究生となった。年齢は18歳から25歳くらいまでのメンバー構成だった。

劇団の名は「オンシアター自由劇場」。俳優座や文学座などといった正統派ではなく、常にエンターテイメントを追求したアンダーグラウンド的な、まあ、小劇団ですかね。

1年間、授業料を払い、研究生として演劇の基礎やダンスや声楽などを学び、昼は稽古場、夜はバイトとハードだった。

毎朝、稽古場につくとすぐ個人個人でマラソン、そして柔軟体操や発声練習。授業では即興芝居などもやらされて常に高い物が求められた。1年の間で厳しさのためかリタイアするものが2~3人いた。

そして、1年の締めくくりとして卒業公演というものがあり、そこでまたフルイにかけられる。結局、男7人女5人だけが残り、晴れて正式な劇団員(授業料はいらない)となり、上の先輩方と行動を共にすることとなる。ぼくも、運よく残ることができた。

しかし、日本の芝居の世界はハワイで思い描いていたものとは少し違い、違和感もおぼえた。それから、数年間続けたが、毎日極貧の生活には耐えられず、己の実力をも考えて、当時痛めた膝の半月板の手術を機に退団して、大阪に帰ることにした。情けない話だ。だから、今まで言わなかったのだ。ただ、その時の芝居仲間とは今でも親交がある。7月に岐阜で結婚した友人もそのひとりである。

ちなみに、この劇団は今は解散して、ない。当時、人気劇団で、毎回おもしろい芝居を打ち、チケットの入手も困難であった。ヒット作「上海バンスキング」の凄さは今も語り継がれている。ビッグな人たちもよく見に来られていたなあ。矢沢永吉さんは常連さんだった。ぼくたちの若手公演にも来ていただいていたようだ。

座長は串田和美(くしだかずよし)さん、看板女優は吉田日出子(よしだひでこ)さん。5年先輩の5期生(ぼくは10期生)に今でも映画やテレビで活躍されている先輩がいる。大谷亮介(おおたにりょうすけ)さん、斉藤暁(さいとうさとる)さん、小日向文世(こひなたふみよ)さん、余貴美子(よきみこ)さん。

大谷さんはコワかったが、神戸出身なのでぼくとしゃべるときは関西弁でおもしろかった。

斉藤さんはいつもほんわかされていた。ぼくとバイト先が一緒だった。横浜市の工場に行くとき、こちらもバイク、あちらもバイクだった。

小日向さんは当時から一番モテテいた。先輩面などせずいつもやさしかった。昔、大阪公演のとき、楽屋へ挨拶しにいったときも、暖かく迎えてくれてハグしていただいた。

余さんは今でももちろんお綺麗だが、20代の余さんはエキゾチックな美しさだった。でも、気取らずいつもニコニコされていた。

おっと、気がついたら「おもてなし」からオリンピックの話には行かず、芝居の話になってしまった。
「オモテ なし」だが「ぼくの過去の ウラ話は あった」のである。????