今年から始まった新シリーズ。前回といってもあれは2月だったが、第1回目の「お国自慢」は徳島県を取り上げた。なぜ1回目が徳島県だったのかというと、実は妻の故郷なので気をつかってそうしただけです。すみません。さて、はえある第2回目は、ぼくの両親の故郷である三重県にしてみました。では、はじまりはじまりー。

地図で見ると、三重県は南北に細長い。北部は岐阜県、愛知県に接しており、東部は伊勢湾であり、太平洋なのだが、西部は上から、滋賀、京都、奈良、そして和歌山の各県に隣接している。面積は5,777k㎡で47都道府県中、第25位であるので、まあ真ん中あたりか。1位は北海道が83,456k㎡でダントツ。まさしく桁が違う。2位は岩手の15,279k㎡、3位は福島の13,783k㎡と続く。ちなみに大阪はどうかというと、1,897k㎡で46位のドベ2だ。

県名の「三重」は「古事記」に由来するらしい。その昔、ヤマトタケルが東方遠征でかなり疲労していたのであろう、現在でいうところの桑名市から亀山市へ向かう途中、「わが足三重の匂(まか)りなして、いと疲れたり」と語ったらしく、それゆえこの地を三重と呼んだということだ。

三重県で最も栄えているところは‘ぜんそく’の四日市や‘その手はくわなの焼きハマグリ’の桑名といった名古屋に近いところだ。これは交通の便からいっても当然のことだ。昔、江戸と京を行き来するには東海道を通っていた。京都を出て滋賀から三重に入るには、鈴鹿峠を越えて亀山を抜け、四日市、桑名そして、名古屋へと続くのである。

話は変わるが、江戸時代、「お伊勢参り(お陰参り)」が流行した。猫も杓子も皆伊勢へ向かった。旅行ブームの原型というものであろう。当時の旅行ガイドブックは十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の書いた「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」であった。そのころ、「抜けまいり」という言葉があった。

お店の丁稚が表を掃いていて急にいなくなる。ヒシャクを1本かついで行くのが「抜けまいり」のしるしでなぜかこれをすると道中、食べ物をくれたりして、けっこう伊勢までたどりつけたらしい。そして、またそのまま江戸まで戻ってきて表を掃いていたりする。「どこへ行っていたのか?」と聞かれても、「抜けまいり」だったと答えると叱られなかったらしい。

ところで、伊勢に向かう伊勢街道の途中に松阪というところがある。ご存知「松阪肉」で有名なところだ。実は両親の故郷がこの松阪(昔は松坂だった)なのだが、戦国時代までは人などほとんど住んでおらず、当然松坂という地名もなかった。豊臣秀吉時代、蒲生氏郷(がもううじさと)という武将が伊勢松坂12万石を封じた。氏郷は風流な歌人でもあり、「古今集」の美学では「松」の緑を愛でるので、この地を「松坂」としたらしい。「坂」は秀吉から「大坂」の「坂」の字をもらったということだ。後に氏郷が移った会津若松という地名もこの人がつけたのだが、ここにも「松」の字が使われている。

松阪の北には津という地名のところがある。漢字一文字の県庁所在地は?というクイズにかならず出てくるが、この津から奈良方面に向かう伊賀街道の先に伊賀上野がある。俳人松尾芭蕉の生誕地でもあり、忍者でも有名なところだ。

なぜ、忍者がたくさんいたかというと、伊賀は四方山に囲まれ、耕地が少なく、その割には地侍が非常に多かったらしく、米を作るだけでは皆食っていけなかった。このため、各家々の男を訓練して忍びを学ばせて、戦が起こるとそれに参加させたり、京に潜入させ盗賊を働いたりして、そしてついに精妙な忍術の伝統ができたのである。

さて、最後に三重の名産品を列挙しよう。

やはり、松阪肉(厳密に定義も決められて、(1)雲出川から宮川の間で(2)6ヶ月以上飼育された(3)メスの処女和牛で(4)肉質は特選、極上、上ものに限る)。いくら松阪で育てられても以上を満たさない場合、単に松阪産牛肉であり松阪肉とは呼ばれないらしい。

申し訳ないがぼくは子供のころからコレを食べて育ったので、もう、他のものなんて食べれません!というのはウソで、最近など諸事情によりオーストラリア産で我慢している。

伊勢えび(生きたまま炭火で焼く‘残酷焼き’というのがうまい)、てこね寿司(もともとは漁師さんが獲ったばかりのカツオを味付けし、持参の寿司飯に手でこねて食べた)、赤福餅(偽装しててもええじゃないか)、的矢(まとや)カキ(殺菌された清浄カキは的矢湾で世界で初めて作られた)、あわび(志摩観光ホテルのあわびステーキは絶品だ!と母親は言っている)。以上。

せやもんでさー、ほんなら伊勢やまっつぁかに、はよ行こにー(訳 そういうことですから、では伊勢や松阪に、早く行こうよ)。