ぼくが20代のころ東京で一人暮らしをしていたとき、これをよく作ったものだ。安くて簡単でうまいのだ。

1982年、ぼくは単身東京に乗り込んだ。今まで、大阪に住んでいたんだし、大阪は第二の都市だし、大都会だし、東京なんてへっちゃらさ、と思っていたが、やはり東京は凄かった。大きかった。大阪をはるかに凌ぐ大都会だった。

なにしろはじめての東京なのでどこがどこだか皆目わからない。スーツケースをゴロゴロひっぱり、とりあえず渋谷の駅前の不動産屋に飛び込み、「どこでもいいですから、一番家賃の安いところ」というと、「では家賃9千円です」となり、「じゃあお願いします」ということで案内してもらったのが、東急東横線沿線の「自由が丘」という駅が最寄り駅で、住所で言うと世田谷区深沢3丁目であった。

‘自由が丘’といえば、東京に詳しい方はご存知でしょうが、高級住宅街で、次の駅は漫才コンビの‘セントルイス’(若い人は知らないでしょう)の「田園調布に家が立つ」で有名なあの‘田園調布’であり、なにしろ‘世田谷’というとセレブの町なのです。そこで、いきなり東京生活をスタートさせちゃいました。

といっても、家賃9千円です。さて、どんなところかみなさん興味がわいてきたでしょう。駅から歩くこと1,2の30分、途中立派な家が立ち並び、そのなかをクネクネ歩き、住宅街を抜けさらに歩きたどり着いたのが、深沢商店街という寂れた商店街の中の山田米穀店。

その裏に、目的の‘山田アパート’という1階平屋建てというか長屋というか築うん十年の建物があった。まあ、下宿屋という感じであろう。オーナーというか家主さんは、今でも憶えているが、山田善八郎(やまだぜんぱちろう)さんという、黒めがねをかけ、ほっぺが少し赤く実直そうな方だった。

果たして、家賃9千円の部屋は最悪だった。そのアパートの玄関を入ると、すぐ靴を脱ぐようになっていて、右手に共同炊事場(といってもちっちゃーい流しがあって簡易コンロ1個というお粗末なもの)があり、左手に共同便所(いちおう水洗だがヒモをひっぱる旧式の)があって、幅半間(約90センチ)の薄暗くて狭い廊下に、右手と左手に部屋が各3部屋づつあって、ぼくの部屋は一番奥左手の部屋だった。

3畳一間の部屋でまさしくそれはもう神田川の世界であるが、窓を開けても川など見えず、すぐ隣の家の壁がドーンとあり、したがってお日様など入らず、畳などいつもじめじめじゅくじゅくしていた。たぶん1度も替えていないであろう汚いものだった。

電話なんてもちろんない。呼び出しである。インターホンが部屋についていて、「藤田さーん、電話ですよー」と善八郎さんから呼び出されると「ハーイ」なんていって、表の山田米穀店のピンクの電話まで走らなければいけない。もちろん、今や死後となったであろう万年床。部屋には秋葉原で買ったカセットラジオのみ。

ここの共同炊事場では、さすがに料理などする気など起こらず、近所の定食屋さんにいっていた。結局半年ほどで我慢できなくなり、引越しすることにした。

東急東横線をさらに2~3駅南下すると多摩川があり、それを超えると神奈川県川崎市になり、家賃も東京23区内に比べるとぐっとお安くなり、快適な住環境が得られるのだった。

次の引越し先の最寄り駅はJR南武線の‘向河原(むかいがわら)’といういかにも田舎くさい駅名だが、まあそのとおりのところだった。住所は川崎市下沼部(しもぬまべ)というところで今度の家賃は奮発して1万8千円と前の倍だった。

2階建てのアパートで、便所は共同だったが、部屋は6畳で、各部屋で靴を脱ぎ、部屋内には小さいながらも流しがついててコンロは各自でそろえる、というところだった。1階の部屋だったが、窓を開けると太陽を遮るものはなく、明るく快適であった。

ここでも、ラジカセだけでテレビなどはない生活だった。だから、その当時の流行った番組なんてのも知らない。もちろん家具なんてないしエアコンなんてのもないし、扇風機も買わなかった。いつも、ウチワでパタパタしてましたよ。冷蔵庫だけは小さいの買いましたけどね。

さて、その部屋でよく作ったのが、オイルサーディンスパである。オイルサーディンの缶詰をパカッと開け、火は弱火で、そのオイルを少しフライパンにいれ、にんにくのみじん切りを炒め、少し香りが出てきたら、サーディン(いわし)をオイルごと投入。よくほぐし、そこにバターと茹で上がったスパゲティー(かため)をいれ、強火にしてしばらく炒めて塩と黒コショウをふって、仕上げにしょうゆを香りづけにフライパンの端に回し入れて出来上がり!サーディン1缶で2人分ぐらいだと思うが、すべての分量お好みです。いけますよ!